|
元・衆議院議員。文部化科学副大臣、法務副大臣を歴任。
1971年3月31日長野県長野市生れ。
0歳の時、両親が離婚。父方の祖父母に育てられる。中学生から不良と呼ばれ高校2年生で進路変更処分(自主退学)。同時に親からも絶縁され、児童相談所を経由し、里親に引き取られる。
|
|
1988年、全国から高校中退生・不登校生の受け入れを始めた北海道の北星学園余市高校2年次に編入学。卒業後は明治学院大学法学部法律学科に進学し法曹を志す。
|
|
大学4年生の秋、オートバイの自損事故で複数の内臓が破裂、意識不明の重体に。その際、母校北星学園余市高校時代の担任、安達俊子先生が横浜の病院まで駆けつけてくれ、「あなたは私の夢だから、死なないで…」と涙ながらに訴え続けてくれた。義家は朦朧とする意識の中で、先生を、0歳で生き別れた生みの母の姿と重ね、生きたい、と強く、強く願った。その後、奇跡的に一命を取り留め、病床のベッドの上で安達先生のような教師になりたい、と心に決める。
|
|
念願が叶い、1999年4月、母校北星学園余市高等学校社会科教諭として赴任。全校から集う生徒たちと、まさに「格闘」の日々を送る。
|
|
「教育という名の森を再生しない限り、不条理に傷つく子供たちは次々に生まれ続ける」
|
|
2005年、日本で一番大きな教育の森である横浜市教育委員会教育委員に就任し、教育改革に邁進する。2006年、第一次安倍晋三内閣のもとに設置された内閣官房教育再生会議の担当室室長に若干35歳で抜擢され、いじめ問題等と向き合う。
|
|
安倍晋三内閣総理大臣からの出馬要請を受け、2007年7月、第21回参議院議員選挙に全国比例候補として出馬し当選。2012年には衆議院に鞍替えし、連続4期当選。
|
|
その間、内閣では文部科学大臣政務官を皮切りに、文部科学副大臣(2期連続)を務め、教育委員会制度の抜本改革、いじめ防止対策推進法の制定、教職員定数の改善、給付型奨学金の創設、教員の働き方改革と待遇改善を主導する。また、コロナ禍では法務副大臣として出入国管理の水際対策に奔走した。
|
|
衆議院では、文部科学委員会委員長、法務委員会委員長、筆頭理事を歴任。
|
|
党では総務会長代理、政務調査会副会長、副幹事長、文部科学部会長、財務金融部会長を歴任し、子ども未来戦略等を主導。
|
|
20年前に掲げた改革案をすべて成し遂げたことを区切りとして、2025年3月31日、政界を引退。
|
|
ヤンキー先生、教室に帰る。
|
|
4月からは、日本で一番小さな閉ざされた教室、少年院(久里浜少年院)の篤志面接委員を務めると同時に、日本で一番大きな開かれた教室、広域通信制高校(山口松陰高等学校)の特任教諭として子どもたちと向き合う。
|
/* pro_keireki_tr.inc */?>